福岡地方裁判所小倉支部 昭和62年(ワ)687号 判決 1989年8月10日
原告
荒井久詞
原告
南雅章
原告
廣津秀生
原告
安部晴善
原告
渡邉清志
右五名訴訟代理人弁護士
住田定夫
同
江越和信
同
荒牧啓一
同
前田憲徳
同
年森俊宏
同
高木健康
同
配川寿好
同
下東信三
同
河邉真史
被告
学校法人九州工業学園
右代表者理事
藤井善信
右訴訟代理人弁護士
田村一已
同
松尾光幸
主文
一 原告荒井久詞及び同南雅章と被告との間において、同原告らが被告に対してそれぞれ雇用契約上の地位を有することを確認する。
二 原告廣津秀生、同阿(ママ)部晴善及び同渡邉清志と被告との間において、被告が昭和六二年四月二五日付でした原告廣津秀生、同阿部晴善及び同渡邉清志に対する各停職の意思表示はいずれも無効であることを確認する。
三 訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
主文同旨
二 請求の趣旨に対する答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 被告は、九州工業高等学校(以下「本件高校」という。)という名称で、高等学校を開設しているものである。
原告らは、いずれも被告より九州工業高等学校教諭として雇用されたものである。
2 被告は、昭和六二年四月二五日付で、原告らに対し、別紙処分一覧表記載のとおり、各処分の意思表示(以下「本件各処分」ともいう。)をなし、原告荒井久詞(以下「原告荒井」という。)、同南雅章(以下「同南」という。)については、以後教員として取扱おうとはしない。
しかしながら、本件各処分はいずれも無効なものであるから、原告荒井及び同南が被告に対してそれぞれ雇用契約上の地位を有すること、並びに被告が昭和六二年四月二五日付でした原告廣津秀生(以下「原告広津」という。)、同阿部晴善(以下「同阿部」という。)及び同渡邉清志(以下「同渡辺」という。)に対する各停職の意思表示は無効であることの各確認を求める。
二 請求原因に対する認否
請求原因1及び2の各事実はいずれも認める。
三 抗弁(本件各処分の有効性)
1 原告らは、いずれも、本件各処分当時本件高校の三年生を担当する教諭であり、昭和六一年度の卒業アルバム(以下「本件アルバム」という。)を編集するための学内の機関であるアルバム修学旅行委員会(以下「アルバム委員会」という。)の構成員となった。
アルバム委員会では、昭和六一年度の卒業生のためのアルバムの編集を担当し、同六二年二月一六日に完成した本件アルバムの納品を受け、同月二八日には三年生に配付した。
2 ところが、本件アルバムには、次のとおり、種々の瑕疵が存在した。
(一) 生徒の住所録の電気科三年三組の生徒五〇名中一八名分が欠落している。
(二) 校歌の歌詞の一部が欠落している。
(三) 表紙の学校名が「九州工業高校」と一部省略されている。
(四) 従来、法人側の人間として位置付けられている常務理事の写真が教頭と並列に配置されており、従来のアルバムとは異なる扱いになっている。
(五) 従来、事務長の写真は管理職としての扱いをしていたが、前事務長は一般職員なみに扱われている。
(六) 新校長、新教頭の写真があるのに、宮下一彦新事務長(以下「宮下事務長」という。)の写真がない。
(七) 職員住所録には新任者の住所、氏名が記載されているのに、事務長として前事務長の氏名、住所が記載され、宮下事務長の氏名、住所が記載されていない。
(八) 前校長の写真があるのに、前理事長、前教頭の写真がない。
(九) 理事長及び常務理事の写真がボケている。
(一〇) 機械科藤河講師の写真がない。
(一一) 修学旅行の写真に混乱がある。
(一二) 「実習風景・普通科」の部分に該当する写真がない。
(一三) 組写真の中に違う写真が存在する。
(一四) サークル紹介欄に部落研究会と物理部の写真がない。
(一五) 従来載せていた三年生副担任の写真がない。
(一六) 職員の名前に誤植がある。
3 アルバム委員会は、「アルバム、修学旅行委員会内規」によって組織されており、右内規によると、アルバム委員会の開催が義務付けられており、その結果は校長の決裁を受けることになっている。ところが、原告らは、アルバム委員会を全く開催せず、その報告決裁を校長にしていなかった。そのため、吉田繁美校長(以下「吉田校長」という。)は、昭和六二年三月三日、初めて本件アルバムの問題を知り、本件アルバムの瑕疵に対する善後策及び今後のアルバム作成の参考にするとの観点から、アルバム委員会構成員たる原告らが本件アルバム作成にどのように関与してきたかを具体的に知る必要が生じた。
4 そのころ、本件アルバムの瑕疵の内、生徒の住所録の欠落について父兄より苦情が出、昭和六二年三月四日、これを受けた正育会(地域の青少年の非行防止と地域の人々の生活相談を主たる目的とする団体)の訴外木村正幸(以下「訴外木村」という。)が来校し、被告に事情を聞きにきたことがあった。その席上、たまたまアルバム委員会が開催されていたので、吉田校長の承諾のもとに、原告らから訴外木村に直接その間の経緯を説明させ謝罪させようとしたところ、原告らは、その趣旨を全うするどころか、かえって宮下事務長の差別を認め、訴外木村の感情を逆撫でするかのごとき言動をして、本件アルバムの問題に無用な混乱を招いた。
原告らは、この経緯について争うが、本件アルバムに、昭和六一年一一月に既に着任していた宮下事務長の写真及び住所録を載せなかったという点は、原告荒井が宮下事務長の導入した経営合理化政策に反対していたことや、納入された本件アルバムを人目につかない所に保管していたことなどからみれば、原告らが意図的に事務長を差別しているものと推認できるものであり、また、右会合においても、原告らはそれを認めているのであって、その点についての謝罪があっても然るべきであるのに、原告らは、以下のとおり、異常なまでの反抗に終始したものである。
5 吉田校長は、本件アルバムの問題の真相を究明するため、以下のとおり、原告らに対し職務上の指示、命令をしたところ、原告らはこれを拒絶し、又はその趣旨に反した行為をなして、実質的に命令を無視するなどした。
(一) 昭和六二年三月五日
原告南は、アルバム委員会の席上、多くのアルバム委員が「今回のことは我々の方に問題があるので、事務長に謝ろうではないか。」と言ったのに対し、「言葉を選んで言わんといかんから。」などと言って、事態収拾をこじらせる方向に誘導した(教唆、煽動)。
(二) 同年三月六日
吉田校長は、原告らに対し、本件アルバム作成の過程及び事務長差別に対する陳謝の気持ちを書いた顛末書を各人毎に同月九日朝までに提出するよう口頭で命じたところ、原告らは、同日、形式的内容を記載した原告ら五名連名の顛末書を一通提出したに止まり、吉田校長の職務命令を実質的に無視した(校長の職務命令違反)。
(三) 同月六日
吉田校長が原告南に事情聴取した際、同原告は、「黙秘権を行使しますよ。」、「記憶にない。」、「顛末書は職務命令で出せと言っているのか。」などときわめて挑戦的、反抗的対応に出た(校長への反抗、指示命令無視)。
(四) 同月八日
原告南は、同日午後一一時一五分ころ、吉田校長の自宅に架電し、「あんたは私の人権を侵害しましたね。」などと言い掛かりをつけた(非常識な時間に脅迫、教育者としての適格性なし)。
(五) 同月九日
吉田校長及び西村和麻教頭(以下「西村教頭」という。)は、前記(二)の形式的な顛末書では、その趣旨を達成できないことから、原告らに対し、二度にわたり、事情聴取を行うので学校に待機しているよう口頭で命じたところ、原告らはこれを無視して無断下校した(職務命令無視、違反)。
(六) 同月一〇日
吉田校長が、原告荒井に対し、校長室において事情聴取した際、原告荒井は、「五人一緒に事情聴取せよ。」などと怒鳴り、あるいは「書記を置け。」などと言い出して事情聴取を不可能ならしめ(反抗、妨害)、また、文書で職務命令を要求した。そのため吉田校長が事情聴取を断念して同人を校長室から退出させようとしたところ、退去しようとせず、文書による退去命令を要求した(命令無視、強要)。
また、原告南に対して事情聴取するも、五人一緒に事情聴取せよと反抗し、吉田校長の質問に対し「記憶にない。」、「以後の質問には回答しません。」などと繰り返し、各人毎に顛末書を提出せよと口頭で伝えると、「文書で職務命令を出せ。」などと強要した(反抗、命令無視、拒否、強要)。
(七) 同月一〇日
吉田校長は、原告らに対し、個別に顛末書を書いて、即日、校長に提出することを命じたところ、原告らは、前記(二)と全く同一内容の顛末書を単に各人毎に各通提出するに止まった(職務命令無視)。
(八) 同月一〇日
被告は、同月九日、正育会から本件アルバムの問題について話合いたいとの申入れを受け、同月一一日午後六時に北九州市小倉南区所在の北方市民館での話合いを行うこととなったので、同月一〇日、原告らに対しても右話合いに出席することを命じたところ、原告らは、弁護士及び共産党所属の県議会議員を立てて職務命令の撤回を強要した(強要、職務命令違反)。
結局、原告らは、右出席命令を無視、無断で右話し合いに欠席した(職務命令違反、無視)。
原告らは、この集会への出席が糾弾になると反論するが、糾弾集会は、行政による事情聴取、確認会と厳格な手続を踏んでなされる、部落差別に対するもので、本件のような場合は考えられないし、吉田校長が出席を求めたのは、生徒父兄及び本校関係者に陳謝し、前記4での原告らが認めた事務長差別を訴外木村に対し詫びて事態を収拾しようとの意図からであった。また、原告荒井は訴外木村とはかなり面識があるはずである。したがって、右集会が糾弾集会になるということは決してありえない。
また、この出席命令が正当ではないと反論するか、この出席命令が正当な職務命令か否かは、専ら校長がその地位権限に基づいて判断すべきものであり、特に私立学校では、校長は現場の経営責任者で学校の存亡を担っている訳で、その地位権限は重要で、その指示、命令には特殊の考慮も必要となるのであって、原告らには職務命令の適否を判断する権限はなく、したがって、これを拒否できない。
更に、原告らに対する処分が決定していない段階で、弁護人及び共産党所属の県議会議員の介入は、被告の業務妨害にも等しいもので、全職員の知るところであり、これを容認すれば他の職員に対しても悪影響が予想できるものであって、かような部外者の不当な介入は雇用関係の根幹にかかわる問題である。
また、被告と労働組合との間に、教師の時間外労働勤務に関する協定があり、教師は本俸の中に時間外勤務の手当が含まれていると定められていることから、吉田校長の右命令はこの点からも違法とは言えないものである。
(九) 同月一〇日及び同月一一日
吉田校長は、同月一〇日、原告荒井に対し、アルバム委員長として本件アルバム編集作業の経過報告書を同月一一日午前一〇時までに提出するよう命じたところこれを提出せず、再度、右同日原告荒井に対し、同報告書を同日一三時までに吉田校長に提出することを命じたか、結局まともな報告書を提出しなかった(命令無視)。
(一〇) 同年四月六日
吉田校長が、昭和六二年度校務運営上の都合により、原告荒井に対し相撲部長に任命しない旨、同広津に対し体操部コーチに任命しない旨の各通告をなしたところ、同荒井は「納得できない。理由を文書で書け。」などと強要し、これを拒否するや、「先ほどの校長の発言を文書にしたのでサインせよ。」などと、同広津は「納得できない。文書で理由を書け。」などと、それぞれ強要した(強要)。
6 原告らは、就業規則四条により、「その職務の遂行に当たっては法令、規則、その他諸規程に従い、かつ上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」義務を有するところ、以上の原告らの言動は、右義務に反するものであって、同規則二五条に基づく懲戒に関する規定二条二項二号の「上司の職務上の命令・指示に正当な理由なく従わなかった場合」、四号の「本校の規則、規程、きまり、通達に違反する行為があった場合」に該当する行為であり、なお、原告荒井、同広津の前記(一〇)の行為は、同条同項一号「人事異動の発令に対し、正当な理由なく応じなかった場合」にも該当するものである。
しかも、前記5(八)でも述べたとおり、本件高校は私学として、経営手腕により発展衰退が決するという意味で私企業であり、高校入学者減少時代を迎える今日、現場の経営者としての校長の地位、権限は極めて重要であって、その職務上の指示、命令は緊急かつ重要性を持つことになる。原告らの前記言動が許されることになれば、本件高校が従前から苦慮してきたいわゆるゴネ得の温床、増長となり、良心的な他の教師は完全に労働意欲をなくし、そのことは生徒に反映されて、本件高校の評価を下げるものとなり、生徒募集に困難をきたし、経営の危機をもたらすものである。
7 被告は、昭和六二年三月一三日、教職員組合に調査委員会が設置されたこともあってその動向を静観し、その間に原告らの自主的な反省の期間を置いた。その期間内に、原告ら以外の三名のアルバム委員会構成員は、被告の指示に従って本件アルバム作成に関する過誤を認め、事情聴取に応じ、善後策に協力してきたため、これらの者には処分をしなかった。これに対し、原告らは、教職員組合委員長の仲介を拒否し、あるいは以下述べる人事委員会に自らの意思で欠席し、ことごとく処分に至らない機会を自ら潰し、かえって、被告側に対し反抗し、無視して、反省の態度をみせなかった。
以上の原告らの態度は、被告に混乱を招き、吉田校長ら役員を辞任に追い込み、本件高校の従前からのゴネ得の体質を確保し、保持し、あるいは、宮下事務長の導入した経営合理化政策に反対し、従来の物品購入による原告らの余得の保持を図ろうとしたものと考えられる。
8 そこで、被告は、同年四月二三日、被告理事会において原告らの処分を決定し、教職員組合に対し、労働協約に基づく「懲戒問題についての人事委員会」の開催の申入れをなし、同月二四日、右人事委員会が開催され、全員一致で被告側が提案した本件各処分議案が可決されたものである。
原告らは、本件各処分決定の手続につき争うが、右人事委員会は労働協定書六条により、学校側及び教職員組合側各四名以内で構成され、双方の代表選出については相互に干渉しないことになっており、原告らの代表者が出席するか否かは被告の関知するところではない。右人事委員会において、組合側が指定した午後四時に、被告側は開会を申し入れたところ、組合側から原告らの代表を一人出席させるので待って欲しい旨の要請があったので暫く待機していたが、結局出席せず、午後四時七分、右人事委員会を開催したものであって、本件各処分決定の手続きには何らの違法もない。
四 抗弁に対する認否及び反論
1 抗弁1の事実は認める。
2 抗弁2の事実中、
(一) 同(一)及び(二)の各事実は認める。
生徒の住所録及び校歌の歌詞の各一部の欠落は、印刷所の単純なミス(印刷漏れ)に止まるものであり、原告らに意図的な悪意等があった訳ではない。
アルバム委員会の構成員としての落度としては、納品時に印刷漏れが直ちに発見できず、そのまま生徒に配付したという点にのみあるが、委員会としては、直ちに、印刷所に連絡をして、欠落した住所録及び校歌の部分をアルバムに貼付けできるように、追加印刷分をシールにして印刷所のお詫び状と共に生徒に配付し、また、印刷所には相当の値引きを申し入れるなど、迅速かつ的確に事後措置を取っている。
(二) 同(三)の事実並びに同(四)及び同(五)の各事実中の写真の配列についての点は認め、その余の事実は否認する。
従来の卒業アルバムには種々の取扱があり、写真の配列等は委員会の裁量に任されていた。
(三) 同(六)ないし(八)の各事実は認める。
宮下事務長が就任したのは、昭和六〇年一一月一日であり、本件アルバム制作の最終段階の時期でもあって欠落するところとなったもので、止むを得ない面も存するのであって、決して宮下事務長を差別するためのものではない。
(四) 同(九)の事実は否認する。
写真業者が当初よりフィルターをかけて仕上げたものである。
(五) 同(一〇)ないし(一六)の各事実は認める。
ただし、いずれも、単純な誤植であったり、写真の配列の誤りであったり、あるいは、アルバム委員会の裁量に属する事項であったりし、本件各処分につながる問題ではない。
3 抗弁3の事実中、被告主張の内規の存在及び校長に報告したり、決裁を受けたりしていなかったことは認め、その余の事実は否認し、主張は争う。
吉田校長が本件アルバムの問題を知ったのは同六一年三月三日より以前である。
また、アルバム委員会の実際の運営は、原告らが職務の合間に臨機応変に事務処理にあたる必要から、校長に対する報告や決裁は省略され、事実上アルバム委員会に一任されており、本件が生じるまで吉田校長自身も本件アルバム編集について関心を持つこともなかったものである。
更に、アルバム委員会は、昭和五九年四月ころ結成されてから、同六一年七月末のすべての編集が終わるまで、定期的に開催されていたもので、その後も必要に応じて数回開催されている。
4 抗弁4の事実中、吉田校長、宮下事務長及び訴外木村と原告らとの会談が存したことは認めるが、その余は否認する。
訴外木村の来校の目的は、欠落した生徒住所録中に二名の解放奨学生がいたことから、この二名の差別を問題にしたのであって、被告も当初から原告らアルバム委員会に直接対応させるつもりであった。ところが、会談では、右の点よりも、前事務長の写真が他の職員と大きさが同じなのは事務局への軽視、差別であるという点、現宮下事務長の写真及び住所録がないのは差別であるといった点に主眼がおかれ、正育会のメンバーだけではなく、宮下事務長、伊藤憲治常務理事(以下「伊藤常務理事」という。)までが原告らを追求にかかったことから、問題がこじれたのである。
すなわち、原告らの協力のもとに本件アルバム問題について事実関係の究明が進んでいた段階で、吉田校長は、不用意にも、学外者で本件アルバム問題とは無関係で部落開放同盟小倉地方協議会(以下「小倉地協」という。)委員長でもある訴外木村を原告らに引き合わせ、更に、その席上で、双方の意見の食い違いから、宮下事務長を差別したか否かという問題が生じ、原告らに対して厳しい詰問が続いたにもかかわらず、その際の適切な処置を怠りそれを容認したことから、原告らは、以後の本件アルバムの瑕疵の問題が宮下事務長の差別問題にすり替えられ、それを理由にしていかなる処分を受けるかもしれないとの印象を持つに至り、以後の吉田校長の職務命令に対して強い警戒感を抱くことになったのである。
5 抗弁5の冒頭部分中、以下述べる校長の職務命令が発せられた点は認め、その余の事実は不知、主張は争う。
(一) 同5(一)の事実中、アルバム委員会が開催されたことは認め、その余の事実は否認する。
(二) 同5(二)の事実中、吉田校長の職務命令があったこと及び原告らが連名の顛末書を提出したことは認め、その余の事実は否認する。
顛末書の提出には、差別したことを前提にし、末尾にその反省を書き、いかなる責任も取りますという陳謝文の挿入が条件付けられていたものである。原告らとしては、本件アルバムの気付いてもいなかった点を宮下事務長に対する差別と決めつけられたこと自体不本意なのに、差別を認め、いかなる責任も取るという顛末書を提出すれば、それにより処分され、更には差別問題として糾弾されるのではないかという不安から、必要最小限度の事項を書いた顛末書を提出したのである。また、陳謝といった個人の良心にかかわることを職務命令で強制することは許されるものではない。
(三) 同5(三)の事実中、吉田校長が原告南に対し事情聴取したことは認め、その余の事実は否認する。
(四) 同5(四)の事実は否認する。
(五) 同5(五)の事実は否認する。
原告らは、顛末書を提出したのと同時に有給休暇届け(当日一日)を提出している。
(六) 同5(六)の事実中、吉田校長が原告荒井及び同南に対し事情聴取したこと、及び吉田校長が同荒井に対し校長室を退去するように求めたことは認め、その余の事実は否認する。
(七) 同5(七)の事実中、吉田校長の職務命令があったこと、及び原告ら各人毎に顛末書を提出したことは認め、その余の事実は否認する。
(八) 同5(八)の事実中、吉田校長の職務命令があったこと、原告らが県議会議員及び原告ら代理人弁護士を立てて右職務命令の撤回を求めたこと、結局原告らは会合に出席しなかったことは認め、その余の事実は否認する。
すなわち、前記4のとおり、本来、校長は学外者からの非難、糾弾から原告らを擁護する立場にあるはずであるのに、吉田校長は、安易にも訴外木村を原告らに面会させ、同訴外人が小倉地協委員長の肩書をもち、宮下事務長と懇意にしていること、しかも当日の面会の様子から察すれば、北方市民館での会合は、原告らに対する非難、糾弾集会へ移行することが十分予想された。したがって、吉田校長の右職務命令は裁量を逸脱した明らかに違法のものである。原告らは、そのような集会への出席を命じる吉田校長の業務命令が正当なものとは考えられなかったので、原告ら代理人弁護士を通じて北方市民館への出席をしない旨の申入書を提出したものである。これに共産党所属の県議会議員が同伴したのは、同議員が県の文教委員として学校側の要請があれば行政の立場から応援をするとの趣旨からのものであって、被告が主張するかのごとき選挙に利用するものではない。
また、右命令は所定勤務時間外の残業を命じるものであるが、被告と原告らの所属する九州工業高等学校教職員組合との間にはいわゆる三六協定は結ばれていないから、かかる職務命令は労働基準法に違反するものである。
(九) 同5(九)の事実中、吉田校長の各職務命令があったこと、原告荒井が一度目は報告書を提出せず、二度目に提出したことは認め、その余の事実は否認する。
原告荒井としては、一度目の職務命令に対して、アルバム委員会を開催して検討したが意見がまとまらなかったので、その旨吉田校長に報告しており、二度目の職務命令に対しては報告書を提出している。
(一〇) 同5(一〇)の事実中、吉田校長が原告荒井及び同広津に対し被告主張のような通告をしたこと及びそれに対し両原告が「納得できない。」と言ったことは認め、その余の事実は否認する。
6 抗弁6の事実中、被告主張の懲戒に関する規定が存することを認め、その余の事実は否認し、主張は争う。
被告は、被告の私企業性をいうが、本件が学校の教育現場における問題であり、こうした処分が教育的視点から生徒及び父兄にどのような影響を与えるかについての検討が全く欠落している。
更に、被告の主張は、要するに校長に異論をさしはさむ者がいては経営がしにくいというだけであって、むしろ本件各処分が原告荒井については学校内の出入業者選定について宮下事務長の始めた新方式に反対したことに、また同南については過去扶養手当問題で紛争があったことに対する報復ないし見せしめの性格を持つことを自ら明らかにするものである。
7 抗弁7の事実中、教職員組合に調査委員会が設置されたこと、同組合委員長が本件に関し原告荒井と接触を持ったことがあること及び原告ら以外のアルバム委員について処分がなかったことは認め、その余の事実は否認し、主張は争う。
8 抗弁8の事実中、被告理事会の決定については不知、被告から人事委員会開催の申入れがあったことは認め、その余の事実は否認する。
本件各処分の手続きには重大な瑕疵があり、この点からも無効である。すなわち、人事委員会は被告側から一方的に開催されたもので、人事委員会を構成する組合側のメンバーとして組合内規上必要な原告らの代表の出席のないままで行なわれているし、原告ら五人分の処分を各別に審議することなく一括決議したばかりか、採決に八分間しか費やしておらず実質審議を欠いた疑いが強い。更に、解雇の場合には組合大会を開催して過半数の承諾を要する従来の慣行があるにもかかわらずそれとも全く異なる取扱になっている。
第三証拠(略)
理由
一 請求原因1及び2の各事実は、当事者間に争いがない。
二 そこで、抗弁について判断する。
1 抗弁1の事実については、当事者間に争いがない。
2 抗弁2の事実中、本件アルバムには、(一)生徒の住所録の電気科三年三組の五〇名中一八人分が欠落していること、(二)校歌の歌詞の一部が欠落していること、(三)表紙の学校名が「九州工業高校」と一部省略されていること、(四)常務理事の写真が教頭と並列に配置されていること、(五)前事務長の写真が一般職員なみに扱われていること、(六)新校長及び新教頭の各写真があるのに、現宮下事務長の写真がないこと、(七)職員住所録には事務長として前事務長の氏名、住所が記載され、現宮下事務長の氏名及び住所が記載されていないこと、(八)前校長の写真があるのに前理事長、前教頭の写真がないこと、(一〇)機械科藤河講師の写真がないこと、(一一)修学旅行写真に混乱があること、(一二)「実習風景・普通科」の部分に該当する写真がないこと、(一三)組写真の中に違う写真が存在すること、(一四)サークル紹介欄に部落研究会と物理部の写真がないこと、(一五)従来載せていた三年生副担任の写真がないこと、(一六)職員の名前に誤植があること、以上の各事実は当事者間に争いがない。
また、成立に争いのない(証拠略)によれば、(九)理事長及び常務理事の各写真が鮮明でないことが認められるが、これがブレているのか、ソフトをかけたものなのかは一概に言い難くその他にこれを断定するだけの証拠はない。
ところで、特に本件で問題とされている(一)の生徒の住所録の一部欠落については、(証拠略)によれば、五十音順に並べた氏名の後方の一八名が欠落しており、かつ、クラスの顔写真の欄では右名簿順に全員掲載されていることが認められ、(証拠略)をまつまでもなく、単なる印刷業者の落度による印刷もれで他意(特に差別目的などの)はなかったことは明らかである。
また、(五)ないし(七)の事務長の取扱いについても、(証拠略)、並びに弁論の全趣旨を総合すると、事務長の写真の大小、配置等は各期によってある程度の取扱の差があるものの、最近六年間の昭和五五年度アルバムから同六〇年度アルバムまででは一貫して事務長の写真は一般職員とは扱いが異なり、本件アルバムはその例にならっていないが、昭和五三・昭和五四年度では一般職員と同じ扱いをしていること、また、前事務長田中忠孝は、本件アルバムでは、前事務長としてではなく、在任中の現事務長として写真及び職員住所録の氏名、住所が掲載されているのであって、宮下事務長の写真及び住所録が掲載されなかったのは、事務長の交代に伴ってアルバム上も写真、氏名、住所の差替えが行なわれるべきところ、宮下事務長が同六一年一一月一日に着任したことから、アルバム編集上の時期的な問題もあって、原告らも構成員であったアルバム委員会がこれを本件アルバムに載せる手筈を失念したということが原因であったこと、がそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はなく、証人宮下の証言部分にあるように、原告らのいずれかが何らかの目的をもって意識的に宮下事務長の写真を省略したとはにわかに措信しがたく、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
次に管理職の写真の取扱いについてみるに、(証拠略)及び原告荒井本人尋問の結果によれば、昭和五七年度までは管理職として理事長と校長だけが掲載され、昭和五八年から常務理事が加えられるようになり、教頭が管理職のページに掲載されたのは前年度の昭和六〇年度のみで、しかも常務理事と教頭とはほゞ同じ大きさの写真であること、前校長の写真が掲載されたのは今回を除けば昭和五六年度のみで最近の一〇年間に前理事長・前教頭の写真が掲載されたことはないこと、今回前校長の写真が掲載されたのは特に現校長の意向に基づくものであること、が認められ、右認定に反する証拠はない。
更に学校名についてみると、(証拠略)によれば、本件アルバムは表紙には前記のとおり「九州工業高校」とあるが、箱及びアルバム本体の背表紙には「九州工業高等学校」と書かれていること、最近一〇年間でみると、アルバムの表紙に「九州工業高等学校」と書かれているのは昭和六〇年度のみでそれ以前は「KYUKO」その他アルファベット文字であり、箱及びアルバム本体の背表紙についても「九州工業高等学校」と記載されているのは昭和五六・昭和五七年度からであり、それまでは何も書いてなかったり、「九州工業高校」、又は「KYUKO」と書かれていたこと、がそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。
右の各事実によれば、常務理事と教頭のアルバム上の取扱い及び前任者をどの範囲で掲載するか、更にアルバム上の学校名の記載について未だ前例として定着したものがあるとまではいえず、現時点でどちらが良かったかの妥当性の問題があるにすぎない。
その他の被告指摘のアルバムの瑕疵については、アルバム整理・校正上のミスがあると言わざるをえないが、それ以上に原告らに何らかの悪意があったことを認めるに足りる証拠はない。
3 抗弁3の事実中、アルバム委員会は、「アルバム、修学旅行委員会内規」によって組織されており、右内規によると、アルバム委員会の開催が義務付けられており、その結果は校長の決裁を受けることになっていること、及び原告らは、アルバム委員会の結果について校長への報告、決裁を受けていなかったことには当事者間に争いがない。
右当事者間に争いのない事実に、(証拠略)、並びに弁論の全趣旨を総合すると、アルバム委員は、昭和五九年四月、同年度入学生のために一七クラスの担任教師の中から各教科に割りふりした形で原告ら五名を含む八名が選出され、更に教務係から一名及び教頭を加えて一〇名がアルバム委員となり、原告荒井が委員長となったこと、アルバム委員会は、業者の選択、アルバムの構成の決定、業者との校正の打合せ等をするため、同年一〇月から同六〇年一一月ころまで、毎週火曜日に定期的に開催されていたが、アルバム委員が、三年生の担任をも受け持ち、生徒の就職、卒業等の多忙な時期に入ったこともあって、その後は必要に応じて随時開催することになったこと、なお、本件アルバム作成の具体的作業は同六一年五月から生徒のアルバム用写真の撮影などが同年七月末までには撮り終えることを目途に進められ、そのころには機械科実習棟の竣工の関係から航空写真の撮影(同年八月)、予定されていた開学五〇周年記念行事(同年一一月)の写真撮影を残すだけ(なお、これらの掲載スペースは予め空けてある。)だったこと、また、印刷されたアルバムの校正も同六一年八月ころからアルバム委員が各担当教科毎に分担するほか、クラス担任やクラブ担当部長にも応援を求めて、印刷の出来た分から順次行なわれ、最終的に翌昭和六二年二月一六日に本件アルバムが業者から納品されたこと、右納品に当っては原告荒井、同南及び同渡辺がこれに立ち会い、理事長の写真が多少ボケているのではと疑問を呈示したが、業者から、フィルターをかけて専門的には価値のある写真であるとの説明を受け、その後は、数の確認に気を取られ、内容の点検を十分に行なわなかったため、前記二2のその余の瑕疵に全く気付かなかったこと、原告荒井らは、三年生にアルバムを配付した同六二年二月二八日、電気科三年三組の担任から前記二2の瑕疵のうち生徒の住所録の一部欠落を知らされ、あわててアルバム委員会を開催して原告らほか三名の委員を呼び集め、善後策を検討し、業者に電気科三年三組全生徒の名簿を裏のりシール付で印刷するよう手配したが、同年三月二日の卒業式の日に業者が手違いにより欠落分の一八名の名簿のみしか印刷してなく、時間もないので、これを業者の「お詫び状」と共に生徒に配付したが、なお他の瑕疵については調査することもなく、同年三月四日に吉田校長から指摘されるまで気付かなかったこと、その後、同年三月二〇日すぎ頃、再度、電気科三年三組全員の住所・氏名と校歌の歌詞を印刷したものが、業者のおわび状と共に卒業生全員に送付されたこと、ところで、アルバム委員会の構成員となっている教頭は、松村躍一郎前教頭(昭和六一年三月三一日まで在任)は、当初からアルバム委員会に出席していたものの、同六一年六月一日に西村教頭が着任してからは、右委員会に出席したり、委員会の活動報告を受けたりしたことはないし、また、吉田校長もアルバム委員会の報告を求めたりもせず、原告らにおいても、西村教頭に出席を求め、また吉田校長に決裁などを求めることもなかったこと、吉田校長は、同六二年三月二日、本件アルバムに問題があることを知り、翌三日原告荒井が業者を連れて、本件アルバムに関し、謝罪に来たことから、一応業者の謝罪を受けて、その後、アルバムの詳細な検討に入ったこと、吉田校長は、本件アルバムの前記二2のような瑕疵に気付いてから、卒業アルバムが卒業生の一生の思い出となる重要なものであることに鑑みて、その善後策と共に同じ誤りを繰り返さないために、本件アルバムがいかなる経緯で作成されたのかを具体的に知る必要を感じたこと、以上の事実が認められる。
4 抗弁4の事実中、昭和六二年三月四日、吉田校長、宮下事務長、及び訴外木村らと原告らとの会談が存したことは、当事者間に争いはない。
そこで、右当事者間に争いのない事実に、(証拠略)、並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 昭和六二年三月四日午前九時すぎから第三会議室でアルバム委員会が開かれ、原告南を除くアルバム委員七名が出席した。アルバム委員は、その席上、吉田校長から前記生徒住所録の一部欠落を含め抗弁2の(一)ないし(八)の本件アルバムの問題点が指摘され、右問題点の検討、特に(1)一八名の生徒の住所録欠落について(2)事務長の写真が職員と同じなのはなぜかについて文章を作成し提出すること、を指示された。
(二) 同日午後一時四〇分頃から、吉田校長、西村教頭及びアルバム委員らが、さきの指示に基づきアルバム委員らが作成した文章を検討していたところ、同日午後二時三〇分頃、さきに吉田校長に対し「アルバムに子供の名前のないという父兄から相談を受けているので事情を聞きたい。」旨申入れていた訴外木村(小倉地協委員長、北九州市職員現業労働組合委員長などの肩書を持つ。)が来訪した旨の連絡を受け、吉田校長は、同訴外人と外二名の小倉地協役員と面会し、住所録の欠落について陳謝し、現在隣室でアルバム委員会が善後策について検討中であると返答したところ、同訴外人から直接アルバム委員会から事情を聞きたいとの申入れがあったので、これを承諾した。
(三) 同日午後二時五〇分頃アルバム委員らが待機している第三会議室へ、伊藤常務理事、吉田校長、西村教頭、宮下事務長、訴外木村と外二名の小倉地協役員が入室し、テーブルの一方に並んでいるアルバム委員らに相対する形で、テーブルの反対側中央に訴外木村、その左側に窓側に向って小倉地協役員二名と伊藤常務理事の順に、訴外木村の右側に出入口に向って宮下事務長、吉田校長、西村教頭の順に、それぞれ着席した。
(四) 会談は、まず吉田校長が紹介をかねた挨拶をしたあと、訴外木村から住所録欠落の中に二名の奨学生がおり、その親からの電話で、名前も住所もないのは本当に学校に行っているのかと親子喧嘩があり家庭の崩壊につながる、と言っていたこれは部落差別ではないか、といった発言があり、他の地協役員二名もこれに同調した。それを受けて、原告荒井が業者に名簿を渡してから欠落発見までの経過とその後の対応を説明しかけたところ、訴外木村は、そんなことは聞いてない、差別したのか否かと問い詰めて原告荒井の発言をさえぎり、その後を受けて、宮下事務長が、前事務長を一般職員並みの写真配列にしたことは本件高校事務局に対する軽視であり、自己の写真と住所録が本件アルバムに載せられていないのは自己を差別していることになると言い出し、更に、それは原告荒井が自己の導入した合見積制度に反対していたことから自分への意図的な差別だとまで述べ、事務長差別問題へと話題が移行した。これに原告らが沈黙していると、宮下事務長のアルバムをテーブルに叩きつけながらの激しい詰問、訴外木村らのこれを支持するかのごとき発言が続いたことから、原告らに混乱が生じ、内心では差別したなどと考えてもいなかったのに自暴自棄的な雰囲気となり、原告らが事務長差別を認めるかのごとき曖昧な返答をした。このことから、宮下事務長や訴外木村ら及び伊藤常務理事までも原告らが宮下事務長の差別を認めたと決めつけて更に難詰を続けた。
この間、原告広津は、ミスとか怠慢はあっても、差別の意図はない旨反論したが、宮下事務長は、口先だけでごまかすななどと言って反論を抑えつけ、同原告が沈黙するや、その態度をもって差別を肯定したと決めつけた。
また吉田校長も、一度は原告らをかばうかの如き発言をしたが、宮下事務長はそんなことを言うと校長も一緒に差別を認めたことになるなどと発言を阻止し、その後は、吉田校長も宮下事務長、訴外木村の発言等を制止し、あるいは牽制するなどの言動はしなかった。
最後に、宮下事務長は、差別を認めたのだから、私の身柄は木村委員長に預ける、今後は木村委員長と話をしろ、お前達は絶対許さないなどと発言して会合は終了した。
5 抗弁5の事実について、同(一)の事実中、昭和六二年三月五日アルバム委員会が開催されたこと、同(二)の事実中、同月六日、吉田校長が原告らに対し本件アルバムの作成過程及び宮下事務長差別に対する陳謝の気持ちを書いた顛末書を各人毎に同月九日までに提出するよう口頭で職務命令を出したこと、及び原告らが五名連名の顛末書を一通提出したこと、同(三)の事実中、吉田校長が同月六日、原告南に対し事情聴取をしたこと、同(五)の事実中、原告らが同月九日下校したこと、同(六)の事実中、吉田校長が同月一〇日原告荒井及び同南に対し事情聴取したこと、及びその際吉田校長が同荒井に対し校長室を退去するよう求めたこと、同(七)の事実中、吉田校長が、同月一〇日、原告らに対し、各人毎に顛末書を書いて、即日、吉田校長に提出することを命じたこと、及び原告らが各人毎の顛末書を提出したこと、同(八)の事実中、吉田校長が、同日、原告らに対し、翌一一日午後六時に北九州市小倉南区の北方市民館での会合に出席を命じたこと、原告らが弁護士及び共産党所属の県議会議員を介してその職務命令の撤回を求めたこと、及び結局原告らが欠席したこと、同(九)の事実中、吉田校長が、原告荒井に対し、本件アルバムの編集作業に関する報告書を提出するよう命じたこと、及び原告荒井が一度目は報告書を提出せず、二度目に提出したこと、同(一〇)の事実中、吉田校長が、同年四月六日、原告荒井に対し昭和六二年度の相撲部長に任命しない旨、同広津に対し体操部コーチに任命しない旨各通告をしたこと、それに対し両原告が「納得できない。」と言ったこと、以上の各事実は当事者間に争いがない。
更に、右当事者間に争いのない事実、(証拠略)、並びに弁論の全趣旨を総合すると、以下の各事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
(一) 昭和六二年三月五日、アルバム委員会が開催され、構成員八名が集合し、その席上、宮下事務長に謝罪しようという話が出たところ、原告南は、誤りにいくのを急ぐ必要はない、訴外木村も小倉地協の委員長として来校した訳ではないので対応する必要もない、謝りに行くにも言葉を選ばなくてはならないなどと発言した。そこで、原告ら以外の三名の委員は、謝罪するにも言葉を選ぶ必要があると考えはしたものの、結局常務理事及び宮下事務長に謝罪したが、原告らは、この段階では謝罪に行かなかった。
(二) 吉田校長は、同月六日、原告らに対し、事情聴取したところ、同南に対する事情聴取において、同原告は、「自分に不利益になることは言えない、黙秘権を行使したい、記憶不鮮明な点もあり、言えない。」などと言って、事情聴取には応じたものの、吉田校長が聞き出そうとしている事項についての具体的返答はなかった。
(三) 吉田校長は、同月六日、校長室において、原告らに対する事情聴取をした際、アルバム作成過程及び宮下事務長差別に対する陳謝の気持ちを書いた顛末書を同月九日午前中までに提出せよとの命令をしたところ、原告らは、同日、吉田校長に対し、連名で、アルバム納入から印刷が漏れていた生徒住所録部分のシール配付までの簡単な経過報告、管理職の写真の大小、位置付け、宮下事務長の写真のないことは全く気付かなかった旨及び「以上の事柄についてアルバム委員としてその配慮不足を認識するとともに今後のアルバム作成に当たっての留意点とします。」という内容の顛末書を一通提出した。
(四) 吉田校長は、同月九日午前九時三〇分ころ、原告らの提出した前記連名の顛末書が当初意図したものではなかったので、原告らに対し再度事情聴取をしようと、原告荒井に対し、アルバム委員会委員を全員残しておくよう命じ、西村教頭は、吉田校長の指示を受けて各原告に同様に命じたところ、原告らはすべて年休届けを西村教頭の机の上に置いて下校した。
(五) 吉田校長は、同月一〇日、既に電報で呼び出していた原告らに対し、再度事情聴取するため、校長室において、先ず原告荒井に対し事情聴取したところ、同原告は原告ら五人同時でなければ事情聴取に応じないと拒否し、吉田校長との間で事情聴取の方法を個別にするか五人一括でするかの押し問答となった。そこで、吉田校長は同原告に校長室から退去するよう口頭で命令したところ、同原告は、文書による退去命令を要求したため、吉田校長は、書面で「あなたに、校長室から退去することを一〇時一二分に命じます。」という退去命令文書を出した。同様に、吉田校長は原告南に対し事情聴取したところ、同原告は「五人同時の事情聴取でなければ答弁しない」旨述べて、事情聴取に応じなかった。その後、原告らは同様に五人一緒に事情聴取をしてくれるよう要求したところ、吉田校長は、原告らに対し、文書で後記各人毎の顛末書の件、北方市民館出席の件を改めて命じると共に、原告荒井に対して経過概要の報告の件を命じた。
(六) 吉田校長は、同月一〇日の事情聴取の際、原告らに対し、同日一六時三〇分までに個人毎に顛末書を提出するよう口頭で命じたところ、原告らは、同日、前記連名の顛末書と同一内容の顛末書を個人毎に作成して提出したに止まった。
(七) 吉田校長は、同月九日、前記正育会から、前記生徒住所録欠落と宮下事務長差別の事情を聞きたいので、来ていただいてもいいし出向いてもいいとの連絡があったので、吉田校長としては、出向いて謝罪したいと返答したところ、同月一一日午後六時に北九州市小倉南区の北方市民館における会合が決まったので、同月一〇日、原告らに対する事情聴取の際、原告らに対し、右会合に出席するよう文書で命令を出した。そこで、原告南は、直ちに原告ら代理人弁護士と相談し、同弁護士から、同日付け内容証明郵便において、吉田校長に対しては右出席命令は無効、不当であり、撤回を求める旨、宮下事務長及び訴外木村に対しても、同人らから差別があったとの話について委任を受けた旨の通知をしてもらい、いずれに対しても差別問題で不利益を受けないよう牽制してもらった。更に、翌一一日、共産党所属の県議会議員と原告ら代理人弁護士は本件高校を訪れ、右同様に出席命令の撤回を求めたが、吉田校長はこれを拒否した。結局、原告らは、右北方市民館での会合に出席しなかったが、原告ら以外の三名の委員がこれに出席したところ、同会合では主に生徒住所録欠落の説明が求められ、事務長差別の点も追求されたが、結局、きびしい糾弾は行なわないまま終った。
(八) 吉田校長は、同月一〇日、原告荒井に対する事情聴取の際、同原告に対し、アルバム委員長として本件アルバムの編集作業の経過概要を作成して翌一一日一〇時までに提出すべき旨書面(本件アルバム作成の経過に即して具体的に一二項目について回答を求めたもの)で職務命令を出したところ、原告らは、同日、アルバム委員会から全員一致の合意を得られず回答を提出出来ない旨の書面を提出した。その後、吉田校長は、原告荒井に対し、個人の意見でよいから同報告書を同日午後一時までに提出するよう求めたところ、同原告から右一二項目について簡潔に回答するといった内容の「回答」と題された報告書が提出された。
(九) 吉田校長は、今回のアルバム問題での原告荒井及び同広津の対応が対外的な責任者としてふさわしくないとの判断から、同年四月六日、原告荒井に対し、翌年度の相撲部長に任命しない旨の通告をしたところ、同原告は、「納得できない。理由を文書にしてくれ。」との要求をしたが拒否されたため、その後、吉田校長に対し、「校長との話合いを文書化したから確認のため署名してくれ。」と要求した。また吉田校長は、同日、原告広津に対し同様に体操部のコーチに任命しない旨の通告をしたところ、同原告からも「納得できない。理由を文書で書け。」といった要求があった。
なお、抗弁5(四)については、原告南が、同月八日深夜、吉田校長の自宅に架電し、「あなたは私の人権を侵害しましたね。」といった内容の会話をした旨の前掲吉田証言があるが、仮にそれが真実としても、その電話の用件、会議の前後関係等不明確なものがあり、右証言部分だけでは、原告南の右行為が被告の主張する懲戒処分に値する所為と認めることはできず、他にそれを認めるに足りる証拠はないから、認定事実から除外する。
6 抗弁6の事実中、就業規則四条では、「職員はその職務の遂行に当たっては法令、規則、その他諸規程に従い、かつ上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」と定められ、同規則二五条に基づく懲戒に関する規程二条二項には、懲戒処分を受ける場合として、「人事異動の発令に対し、正当な理由なく応じなかった場合」(一号)、「上司の職務上の命令、指示に正当な理由なく従わなかった場合」(二号)、「本項の規則・規程・きまり・通達に違反する行為があった場合」(四号)がそれぞれ規定されていることは、当事者間に争いがない。
更に、右当事者間に争いのない事実、(証拠略)、並びに弁論の全趣旨によると、懲戒には、解雇、停職、減給、戒告の四種類があり、解雇の場合は、職員の身分を失い、雇用関係が消滅し、退職金の支給を受けられないことになり、更に、共済組合員資格を喪失するため、同組合からの借入金の即時返済を求められるなどし、また、停職の場合は、停職期間中はその職を保有するが職務につけず、給与の支給を受けられず、更にその期間を勤続年数に算入されず、昇給については一年間延伸され、期末手当を一年間一〇パーセント減額すると定められていることが認められ、右認定に反する証拠はないところ、右によれば懲戒解雇及び停職はいずれも極めて重大な不利益を被処分者に与えるものであるということができる。
三 被告は本件処分の理由として前記三抗弁5記載の各職務命令違反等の事実を主張し、アルバム問題が直接の理由ではないかの如き主張をするが、前記二5認定の被告主張の各職務命令がどのような動機、理由から発令されたものであるかが問題であり、被告が原告らに何を求めていたのか、全体としての流れの中で職務命令の適法性が判断さるべきである。
そうだとすれば、本件ではやはり、その発端となった生徒の住所録の一部欠落を主体とするアルバムの瑕疵問題、及び三月四日のアルバム委員会における差別確認問題を充分ふまえた上で、職務命令違反等を検討する必要がある。
1 まず、本件アルバムは、前記二2のとおり、確かに種々の瑕疵があり、原告らにおいて、十分な印刷業者との打合せ、校正、検収等があれば防げたものもあり、また原告らは、生徒の住所録の一部欠落に気付いてからも被告側に何らの報告もせずに独断先行していたきらいがあり、善後策も不十分であったことなど、アルバム委員として原告らに責任があることは明らかであるが、逆に、被告側のアルバム作成過程でのアルバム委員会に対する対応にも不十分な面があり、これらアルバムの瑕疵がすべて原告らアルバム委員の責任に基づくものとは言い難いし、ましてや、いずれかの原告が意図的にそのような策略を働かしたとは認められないものである。
2 最も問題とされた生徒の住所録の一部欠落についてみると、前記認定のとおりその態様からも一見して単なる印刷もれであることは明らかであり、かつ印刷業者も自己のミスであると認めていることを吉田校長は勿論宮下事務長も充分知悉していたものである。右欠落者一八名の中に解放奨学生が二名含まれていたからといって、これが部落差別だとすることとは全くいわれのない言いがかりだという外はない。
また宮下事務長の写真、氏名、住所の欠落についても、前記のとおり、アルバム編集並びに校正上のミスであることは明らかである。
3 しかるに三月四日の訴外木村らと原告らとの会談においては、小倉地協側から住所録の一部欠落は部落差別だとの主張がなされ、宮下事務長はこれに同調し、右自己の写真、氏名、住所の欠落をも併せて差別であると強弁し、原告らの事情説明や反論の一切を封じて、たゞ原告らに差別したことを自認させることに狂奔している。そして最後は、原告らが差別を認めたとして、自らはその上司である伊藤常務理事や吉田校長にではなく小倉地協の木村委員長に身柄を預けることを宣言して会談を終了させている。
4 三月四日のアルバム委員会は、もともとはアルバムの瑕疵の発生原因の解明と今後の防止策の検討のため、原告らアルバム委員は勿論被告側管理者である吉田校長らもそのためのアルバム作成過程を明らかにすべく全員で検討していたものである。
被告は、訴外木村らの申出を受けて原告らから直接経緯を説明させ謝罪させようとした旨主張しているが、未だ学内での問題解明がすまない過程において、本件アルバム問題に関し、いかなるかかわりをもっているか必ずしも明確でない第三者(訴外木村らが住所録欠落者のうちどの父兄の委任を受けてきたかについて被告(学校)側は確認したわけではない。)を、学内の委員会に出席させ、かつ質問を認めたこと自体問題であるが、更には、発言の大半は被告(学校)側の宮下事務長であったとはいえ、その内容はアルバムの瑕疵の発生原因解明ではなく、訴外木村らの発言を引き継いだ差別問題に終始し、被告組織内での上司たる吉田校長の発言も宮下事務長の一言で阻止され、最後は事務長差別問題についての解決方法なり処分権限を学外者たる訴外木村に一任するとも解される意見表明に終っている。
右の会談の推移からみると、第三会議室内における関係者の着席位置をも併せ考えれば、右委員会における学校側の主体性は全く認められず(宮下事務長の発言も前記態様からみると学校側の立場というよりは訴外木村らを補助する立場で行動したことを示すものである。)、当初の学校側の意図はどうであれ、結果的には小倉地協関係者による差別問題糾明の場と化してしまった観がある。
5 そこで、被告管理者で学校における直接の責任者たる吉田校長の態度をみると、前記のとおり三月四日のアルバム委員会までは、アルバムの瑕疵の発生原因の解明と今後の防止策の検討のため、原告らアルバム委員会に対してアルバム編集の経過をまとめるよう指示し、自らもこれに加わって検討し、同日午後の会談でも原告らの編集、校正上の単なるミスとして捉える態度を示していたが、右会談後は宮下事務長と同じく、原告らが差別と認めたから差別だ、との立場をとり(原告南に対しては、同人が差別を否定しつゞけていることを知っていながら、他の委員が差別を認めているから同原告も差別を前提とした顛末書を提出せよと命じている。<証拠略>)、差別の事実を認めずアルバム委員会としての事案解明と顛末報告書の作成を主張する原告らに対し、原告ら個別の事情聴取と、差別事実を認めたうえでの謝罪の意思表示を含む顛末書の作成提出を要求し、これに従わない原告らに対し被告主張の職務命令を連発してきたものである。右は被告側の事情聴取の目的が当初の事案解明から、個人責任の追及ないし処分問題に変ったものとみられる。
6 一方、原告らは、三月四日午後の会談の経過から、アルバム問題の解明について、釈明の無駄なことを知り、被告に対する信頼をも失い、その後の被告の事情聴取の目的が原告らの責任追及にあることを察知し、被告の聴取に応じ又は職務命令に従うことに不安を覚え、かたくなな態度をとるに至ったものである。
四 このような背景事情を踏えて、前記二5の各事実を再検討する。
1 前記二5(一)の事実についてはこれを捉えて、原告南が原告らを煽動したとは認めることはできず、それに副うかのごとき前掲吉田証言は直ちに信用できないし、他に被告主張の事実を認めるに足りる証拠はない。
2 同5(二)の事実は、吉田校長が事情聴取をしようとしたその真意とはかけ離れるものではあるが、前記の訴外木村との会合において、宮下事務長の差別問題の解決が同訴外人に預けられた恰好になっており、被告側も原告らが宮下事務長を差別したことを認めているとの立場に立って原告らと対応しているのであるから、吉田校長に対する不用意な発言がその関係で悪影響を及ぼす可能性があり、原告南が吉田校長に対し具体的な返答をしなかったのもやむをえない面があると言わねばならない。
3 同5(三)の事実については、吉田校長は、顛末書に事務長差別を認めて謝罪するとの内容も折り込まれることを期待し、その旨の職務命令を出していたから、原告らの提出した顛末書には右事務長差別に関する部分が欠落しているので、吉田校長の職務命令に十分応えていないことが認められる。しかし、原告らに事務長差別の意思はなかったのであって、右顛末書は宮下事務長に対する差別を間接的に否定することの表明であり、また、一方では、小倉地協委員長である訴外木村からいかなる取扱いがなされるか、戦々恐々の心境で提出したものと認められる。右原告らの置かれた立場から考えると必ずしも命令無視の責任を厳しく問うのは相当ではない。
4 同5(四)の事実については、原告らは、吉田校長の職務命令がある以上、年次休暇を取って下校することは右命令を無視したということにはなる。しかし、原告らとしては、前記のとおり、前記顛末書を提出したことから、直ちに何らかの報復があるのではないかと危惧していたところであり、そこへ吉田校長の待機命令があったということは、直ちに何らかの手段が講じられると予測できるところであって、孤立した原告らにとって、右命令に従うことを期待することは困難であるとも考えられる。また、この点について、被告は、直接待機命令を受けているのにこれを無視したとして、原告荒井に対し二時間分の賃金カットをし、その余の原告に対しては不問に付し、その限りでは一応決着がついていると言えなくもない点もある。したがって、原告らの待機命令無視も、それまでの経緯、原告らの動揺からすれば、いたしかたないものと言える。
5 同5(五)の事実については、吉田校長が意図していた本件アルバム作成過程の究明という点では、目的を達成しないものではあるが、それまでの事実の流れからして、原告らの言動は宮下事務長の差別問題について非常に深まっている警戒心の現れとして捉えることができ、原告らが被告側に対し警戒することが右のような対応となって現れてくるのも無理のないところであり、これに対し被告側でその警戒を解消するための方策を取ったとの証拠もなく、かえって、このころから職務命令を頻繁に出す傾向が深まり、原告側もますます警戒の念が深まってきたとも理解でき、原告らとしてはやむを得ないものであったと言える。
6 同5(六)の事実については、原告らとしては、前記のとおり、顛末書の提出命令は、宮下事務長に対する差別を認め、同事務長に対する陳謝の意を記載した顛末書提出の要求がそのまま継続していると受け取ることとなり、更に各人毎の提出となれば、各人毎の対応いかんでは何らかの報復が開始される契機になるということでもあって、苦肉の策として右の様な顛末書を提出することになったと言うことができ、かかる経過の上では、前述のとおり、原告らにやむをえない事情があったと言えるものである。
7 同5(七)の事実については、昭和六二年三月一日より実施の「九州工業高等学校就業規則」(<証拠略>)一三条三号、「時間外・休日労働に関する協定書」によれば、必要に応じ職員に対して、時間外・休日労働をさせることができ、教員については、時間外勤務手当は本給に含まれていると定められていることから、吉田校長の出席命令はそれ自体は右規程に反するものではなく、結局は、原告らが右出席命令を無視したということになる。しかしながら、被告側において、学内の問題をどうして学外の集会において解決しなければならないのか、そこへ原告らを出席させる必要があったのかなど、その集会の被告側の位置付け、意味付けが不明瞭であるばかりか、吉田校長もその点を具体的に原告らに対し説明した訳でもない。
証人吉田の証言中には、会員の中に生徒の父母がいるので説明のため参加する旨の証言部分があるが、当日の参加者がどれだけいてその中に何名の父母が参加しているかを確知しているわけではなく、もし父母に説明を要すると考えるのであれば学校として父母会を聞いて説明するのが常道であることから、右証言部分はにわかに措信できない。
したがって、原告らとしては、宮下事務長の差別問題に対する報復がこのような形で発現したと捉えるのも無理はなく、その対応いかんによっては糾弾集会へ移行するかもしれないと恐れるのも十分理由のあるところである(なお、現実の会合が平穏に終ったとしても、仮に当面の目標になっていたであろう原告らが出席していた場合どうなったかは予測できない。)本来、こうした部外の圧力からは、格別の事情がない限り、被告側の幹部が事に当たり部下である原告らの前面に立ってその糾弾、妨害から守るべき地位にあるものであって、これと逆行する吉田校長の右職務命令は妥当とは言い難い。したがって、右命令の妥当性、その当時の原告らの置かれた状況等を総合考慮すると、原告らが右命令に背いたのもやむをえなかったものと言わなければならない。
なお、被告側は、部外者である原告ら代理人及び県議会議員を学内に導入した原告らの行為を非難するが、原告らにとっては、その立場を理解してくれる有力な支援者が学内にいない以上、その様な方法をとるのも仕方ないことであり、被告の前記対応の不当性とを比較すると、このことをもって直ちに懲戒処分に値するとは言い難い。
8 同5(八)の事実については、このことをもって、命令違反であるというが、吉田校長の一二項目の質問事項に対しては、それなりの回答をしているのであって、吉田校長から続々発令される職務命令に対する原告らの応対としては、その当時としては出来る限りのものと言うことができ、このことをもって直ちに懲戒処分に値するとは言い難い。
9 同5(九)の事実については、従前から、原告荒井は本件高校の相撲部部長として、同広津は体操部のコーチとして、生徒の指導に励んできたことから、急な右通告に対し「納得できない。」と反論するのも無理のないところであり、本件アルバム問題と右通告の関係について知りたいと欲するのもやむを得ないところであって、その態様も格別逸脱したものと言うことはできず、このことをもって直ちに懲戒処分に値するとは言い難い。
なお、被告は、本件高校の従来からのゴネ得の体質と私企業性をいうが、本件と被告が苦慮しているという従来からのゴネ得の体質との関係は証拠上明らかとは言い難く、また、被告が私企業であるからといって、直ちに原告らに対し妥当でない職務命令に従う義務が生じるというわけでもなく、被告の主張は本件では当てはまらない。
五 以上要するに、個々的形式的には、原告らに職務命令違反の事実もあるが、前記のとおり、事の発端は、吉田校長が、不用意にも原告らを部外者である訴外木村に会わせ、宮下事務長の差別に関する発言、詰問を同訴外人の前で許し、これに同調するかのごとき対応に出たことが、原告らに極度の警戒心を生じさせ、糾弾集会等による危険に恐れを抱かさせ、結局は硬直した頑なな態度を取らせてしまったのであって、被告側は、それを解消することもなく、職務命令を続々と発して原告らを追い込んでいったという経緯に鑑みる時、原告らの頑なで拙い対応にも問題があり、もう少し賢明な対応をしていれば本件のような問題までには至らなかったと認められなくもないが、その他被告が主張するような事情を総合考慮しても、直ちに本件各処分のような重い懲戒処分を選択するという形で原告らに不利益を追わせることは明らかに程度を超え、相当とは言い難いものである。
よって、その余の判断をするまでもなく、本件各処分は無効と判断せざるをえない。
六 以上のとおりであって、原告らの各請求はいずれも理由があるから認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 渕上勤 裁判官 有吉一郎 裁判官 川口泰司)
処分一欄表
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